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審査員総評

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今回の映像芸術祭には、想像を超える多様なジャンルとテーマの作品が集まりました。アニメーションからドキュメンタリー、物語性のあるものから抽象的な表現まで幅広く、既に第一線で活躍するアーティストの参加も見られました。いずれも質の高い映像作品であったため、選考は非常に難航し、審査員の専門性が問われる場面も多くありました。アート作品に限らず、さまざまな表現が「映像」というフォーマットで寄せられたことは、本芸術祭の層の厚さと、映像表現の発展を如実に物語っていると言えるでしょう。グランプリに選ばれた横山大介氏の『傘借りられます?』は、利便性が優先されがちな現代社会において、コミュニケーションの根源的な価値とその「開発」というテーマに向き合った、個人的かつ普遍的な力をもつ映像でした。準グランプリおよび市民審査賞を受賞した島田乃梨子氏の『水のかたち/The Shape of Water』は、手描きドローイングを連続させるアニメーションで、作家の技巧が際立ちました。審査員特別賞の平岡真生氏『向こう側でこちらを眺めている人』は、記憶と空間をめぐる問いを幻想的かつ社会的な視点で描いた印象深い作品でした。特別賞を受賞した冬木遼太郎氏の『turn(l/r)ight』は、芸術祭の形式そのものに切り込む挑戦的な内容で、本芸術祭におけるひとつの象徴的な作品だったと言えるでしょう。これだけの作品が集まったことは、本芸術祭がいかに注目されているかを示すものであり、審査に携われたことを光栄に感じています。

大下 裕司 おおしたゆうじ 

(キュレーター)

昨年開催された「茨木映像芸術祭2022-2023」には応募者として参加したが、今年は初めて審査員として、多くの映像作品と向き合う機会を得た。「多種多様」と一言で片づけることもできるが、作品を観ながら、人々が何を考え、どのように表現するのか、その多様性に改めて驚かされた。作品群はそれぞれが異なる視点やテーマを持ちながらも、私はそれらを通じて共感したり、新たな表現方法に感嘆したり、美しい光景に心を打たれたりする。その経験を通じて、「多種多様」でありながらも私達はどこかで繋がっているのだと実感した。

特に印象に残った2つの作品について述べたい。1つ目は鈴木 野々歩による「映像書簡あぶりだし・あそーと。」である。本作は「あぶりだしアニメーション」という独特な手法の紹介から始まる。まず、「結婚おめでとう」と書かれた紙を掲げる二人の少女が登場し、ほほえましいビデオレターのように見える。次に、斬首の瞬間を限りなく引き延ばし、終わりない苦悶を描くアニメーションが映し出される。そして戦中と戦後を語る父の詩の朗読に合わせた「あぶりだし」アニメーションへと展開する。作品は、私的な空間や日常の断片から、公的な制裁の暴力へと移行し、最終的には戦争の記憶と記録が作者の部屋の映像と交錯する。一見すると独立した映像群のようでありながら、私的な空間に公的な暴力が浸食していく構図が浮かびあがり、胸が締め付けられる。父の詩を朗読する声は淡々としているが、その内容には日々の凄惨さが滲む。戦争が終わりを告げ、平穏な日常が詩の中に現れても、どこか虚ろな面持ちの父が思い浮かぶ。戦争の記録映像と重なる私的空間の描写は現在と過去を繋ぎ、アルバムの中の古い写真のようにすすけた記憶を、目の前に現実としてあぶりだす。すべてが終わってもなお、あぶりだされ続ける戦争の記憶と、その裏に潜む、語られなかった膨大な出来事について思いを巡らせずにはいられない作品だった。
2つ目の作品は平岡 真生の「向こう側でこちらを眺めている人」。本作に登場する家々や室内は表層だけがなぞられ、中身は空虚で歪み、そこにあるのは「所有」の概念がもたらす虚無感だ。そして「分断」もまた同時に描かれている。興味深かったのは、作者がブロック塀に注目した点である。ブロック塀は両家の境界として存在するが、その空洞部分に広がる隙間を通じて、分断された私たちが手を取り合う可能性を作者は示唆する。昔そこに「たんぽぽの種を置いた」という言葉が印象的だった。それは芽吹いたのだろうか。陽の届かない深い穴の底で、種は枯れて土になったのかもしれない。しかしその行為自体が、こちら側からあちら側へと手を伸ばした記憶として残る。所有も分断も存在しない「ユートピア」は、誰のものでもなく、同時に誰のものでもある。思い描くことはできても、実際に踏みしめることはできないのだろうか。そんな疑問を作者はまた、ブロック塀の穴に投げ入れているようだった。

今回の映像芸術祭を通じて、映像表現の持つ力、そして作品が観る者に与える影響の大きさを改めて感じた。もちろん、ここで取り上げた二作品に限らず、受賞・入賞作はそれぞれ異なる視点や手法を持ち、どれも力強いものばかりである。それらが共鳴する瞬間があり、その多様性の中に自己と確かな繋がりを感じることができるだろう。こうした作品群を一堂に鑑賞できる茨木映像芸術祭がこれからも長く続いていくことを願ってやまない。

 

河原 雪花 かわはらせつか

(美術家、映像作家)​​

茨木映像芸術祭の特徴は、「8分19秒以内の映像作品」という応募規定のみで、ジャンルの枠を設けていない点にある。そのため、審査員を務めた前回と同様、極めて多様な応募作品が並んだ。私自身は現代美術を専門とする批評家であるため、現代美術として社会的な批評性があるか、映像というメディアを問い直す力や実験性があるかを重視して審査した。


グランプリを受賞した横山大介《「傘借りられます?」〈言葉に触れる身体のためのエチュード〉より》は、マイノリティの身体的な経験を、「互いに教え合う」コミュニケーションや協働作業を介してどう共有できるかを実践する、秀逸な試みである。吃音をもつ横山は、日常会話の録音から自身の吃音の特徴が出ているフレーズを抽出し、その音声データを、菊池有里子(音楽周辺者)に依頼して「吃音スコア」として譜面化してもらった。さらに、その譜面を中川裕貴(音楽家、チェロ奏者)に渡し、スネアドラムでリズムを刻む「演奏」を依頼した。映像作品は、横山が「吃音スコアの演奏」を中川から教わりながら「練習」するプロセスの記録である。
吃音に限らず、マイノリティの抱える困難さとは、単に人口比率の少なさではない。「当事者ではないマジョリティが、どれだけ説明を聞いても、自らには身体的な経験として降りかかってこないため、マイノリティの経験自体を共有できない」という根本的な困難さがある。そうした困難さに対し、横山は、「当事者と非当事者が互いに教え合う」プロセスを通して、「その人特有の身体的なリズムを共有する」ためのレッスンを開いていく。音楽家である中川は、ドラムの奏法を教えることはできるが、吃音の身体感覚については横山から教わる立場にある。「楽器の練習(エチュード)」という設定だが、教える/教わる立場は固定化されず、流動的だ。互いの手を行き来するドラムスティックやブラシは、両者の橋渡しの象徴でもある。本作は、「ネガティブ」とされる特性について、腫れ物に触るように接するのではなく、「楽器の練習」という設定を巧みに利用し、マジョリティがどう身体化して共有できるかという社会的なレッスンでもある。


準グランプリ・市民審査賞を受賞した島田乃梨子《水のかたち/The Shape of Water》は、流木の表面のディテールをドローイングで紙に写し取っていくプロセスをコマ撮りでつなげたアニメーション作品である。触覚的なミクロの描写から、水辺や山脈のようなマクロの風景が立ち上がり、さらには大地の隆起を時間を圧縮させて眺めているようなダイナミズムも想起させる。あえてサイレントにし、描写の力強さだけで勝負した点も潔い。

審査員特別賞の河合ひかる《旗を立てる》は、皮膚に東洋医学の鍼を打つ行為を、「大地に国旗を立てる」行為に見立てたものだ。背中に鍼を一本ずつ打たれながら、「そこはどの国だと思う?」という質問に淡々と答えていく。日本、韓国、北朝鮮、フィリピンなどと答えていくうちに、だんだん混乱してどこの国か曖昧になっていく。大地の上に国境線を引いて分断される痛みが、皮膚に鍼を刺すという痛覚として迫ってくる。ここには、国境線に加え、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、障害の有無といった様々な分断線も重ねてみることができる。だが、「鍼」には一瞬の痛みが伴うが、針を刺す拷問ではなく、本来は治療・セラピーの行為である。「皮膚=大地に鍼を刺す」行為には、強制的に分断線を引かれる痛みや、分断を生み出す構造自体をセラピーとして癒やしたいという希求が込められているのではないか。東洋医学の鍼は、身体的不調の原因に直接アクセスするのではなく、「ツボ」を刺激することで間接的に治療するものだ。アートもまた、間接的に働きかける作用を通して、社会を「治療」することができるという視座を、本作は提示してくれる。


審査員特別賞の平岡真生《向こう側でこちらを眺めている人》もまた、Google Earth、3Dスキャン、動画生成AIといった「自ら制作しない映像ソース」のコラージュによって、「境界線」について問う作品だ。平凡な住宅街にある家と隣家の境界線をなす、ブロック塀。境界線上にあるブロック塀は誰の所有物なのか、さらにコンクリートブロックの「穴」は、「所有」可能なのか。3Dスキャンで映像化された「家」の外観や内部の室内は、不自然に歪んでおり、災害の後のような荒廃感や不穏さが漂う。本作の肝は、「日本語のネイティブではない話者によるナレーション」である。その発音を、3Dスキャンで生成された空間の歪さと同様に、「不自然で歪だ」「訛っている」「『正しい』日本語の発音ではない」と感じられるなら、それは日本語ネイティブの特権である。非ネイティブによる朗読を「歪だ」と感じてしまうこと自体が、「あなたの中にある境界線なのではないか」と本作は問いかける。(クレジットに示されているが)ナレーションの担当者が中国人であることから、「隣家との境界線のブロック塀」は、日本/中国という境界線のメタファーを示すとともに、さらには様々な分断線を想起させていく。


最後に、2024-2025特別賞となった冬木遼太郎《turn(l/r)ight》について述べる。冬木の作品は、「8分19秒以内」という応募規定と、「展覧会」という制度において「映像を見ること/見せること」自体を問いかける、問題提起的なものだ。「応募作品の上映時間」は計24時間であり、観客は、用意された3つのサイコロを振って「視聴開始の時間」を決定する。つまり、24時間という上映時間から「任意に切り取られた8分19秒」のみ、視聴することになる。実際に流れるのは、個人のSNSやネットニュースなどで流れる雑多な映像を脈絡なくつなぎ合わせたコラージュであり、どの8分19秒を切り取っても基本的な構造は同じであると推測される。冬木は、あえて「無意味でランダムなネット上の映像のコラージュ」を行なうことで、地球上に存在するあまりに膨大な「映像」の全てを私たちは見ることが不可能なこと、そして「展覧会」という制度において、長尺の映像作品を鑑賞する際、「その作品を見た」と言える保証はどこにあるのかを問いかける。


映像機材や編集の簡便化や低コスト化が進む現在、映像制作の専門教育を受けていなくても、スマートフォン1台でも映像作品をつくることができる。一方、スマートフォンでネットサーフィンをする合間にも、無数の広告動画が流れてくる。3Dスキャン、動画生成AI、ネット動画のコラージュといったレディメイド的な映像制作が広がる一方で、「映像(作品)を見ること」について自覚的に問い直すこともまた、アートの役割の一つである。

高嶋慈 たかしまめぐむ

(美術・舞台芸術批評)

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