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審査員総評

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応募規定は「8分19秒以内の映像作品」のみで、ジャンルや表現技法、年齢などの規定や制限はない。一方、「YouTube上での公開と視聴者の投票」をプラットフォームとして組み込む点は、アクセスの簡易さの反面、「映像作品」がシングルチャンネルに限定されてしまうこと、多面スクリーンや裏表に投影するといった空間性の排除、画面の大きさや音質が視聴者の再生デバイスに左右されること、といった制限や限界を抱えてもいる。

こうした自由度の高さ、「展示形態」を考慮する必要のない簡便さ(と表裏一体の制限)もあり、応募作品には非常に多様な作品が集まった。手描き、コマ撮り、3DCGのアニメーション。それらと実写の組み合わせ。実写のショートドラマ。字幕や朗読による、小説や詩の映像化。パフォーマンスの記録。野外やスタジオ撮りのダンスの記録映像。さらに、撮影や編集が手軽になったこともあり、入選作品には中学校のマルチメディア部が制作したものも並んだ。「映像」と一口に言っても、改めて多様性を実感すると同時に、応募作品は非常に多岐にわたるため、統一した審査基準を設けること自体が難しかった。私自身は、現代社会や映像メディアそれ自体に対する批評性、作品としての完成度の高さ、実験性を評価基準とした。

 

グランプリを受賞した河原雪花の《観覧車》は、アニメーションの完成度の高さと独自の幻想的な世界観の構築が際立っていた。特に、水中世界の光の揺らめきと遠近感の表現が素晴らしく、魅入ってしまう。また、一見すると絵本や童話風に見える世界観だが、根底には現代社会批評があるといえる。冒頭に津波や水害を思わせる水の氾濫が描かれ、カメラが水中に潜ると、装飾性を散りばめた「観覧車」が回転運動を繰り広げている。何も生産しないまま水中で回転し続ける機械は「滅びた文明社会」の象徴であり、「水中世界という下部構造」「眠る少女」はトラウマ的な記憶を示唆する。作者は自身のサイトで、「中東欧やロシアのアニメーションにおける技法・表現に影響を受け」たと記しているが、幻想性と批評性の両立という点で共通項を感じる。

準グランプリの渡辺大士《客観的観客》は、「映像」それ自体についてのメタ的な考察が秀逸だった。前半では、女性が卵を割って目玉焼きをつくる、時計の秒針が進む、コップに水滴が落ちるという短いカットが何度も反復される。後半では、「観客に見られる対象」だった女性自身が「映像」を見る視線の主体に転じるとともに、コップの水、時計の針、卵の数によって「時間の蓄積」が示され、ラストでは再び被写体に戻った女性が「観客」を見つめ返す。映像とは、常に「過去の再現」の繰り返しであること、同時にそこには「映像を見る現実の時間の流れ」が併走すること、そして「見る/見られる」という視線の非対称な構造があることを、シンプルかつロジカルに提示する手つきが鮮やかだった。

 

同様に、映像へのメタ批評を行なうのが、阿部修一郎《THE CINEMA TAKES PLACE》である。「かつて映画館が建っていた跡地」を固定カメラで淡々と捉えた映像を、部屋の壁に投影して眼差す男性が、入れ子状に映される。本作のポイントは、機器の電源が切られ、「映像=プロジェクターの光が消えた壁」を映し出すラストである。その「空白の壁」は、「かつて映画館のあった空き地」と重なると同時に、「映像=光を見ていること」にほかならぬことを指し示す。この点で、「映像とは何か」をめぐり、渡辺の《客観的観客》と相補的関係にある。

一方、応募作品の傾向として、やはりコロナ禍の影響がみられた。審査員特別賞の辻梨絵子 《ルリジサの茶》は、ストレスから身を守りリラックスする方法を、友人たちにインタビューし、ドローイング、自然の中を歩く、庭の竹を切って燃やすといった行為を実際に実践する様子を丁寧に記録した作品。コンセプトとスローなテンポの映像が気持ちよくシンクロし、語られる言葉も示唆に富む。コロナ禍に言及する作品の傾向として、「“私”の孤独や辛さ」「自分の生活を見つめ直す」といった内向性が多いなか、辻の作品は「ゆるやかに外に開いていく」点で目を引いた。それぞれのリラックス方法をシンプルに実践する友人たちの姿と言葉は、個別性の中にゆるやかなつながりを生み出していく。

 

また、コロナ禍を受け、舞台芸術では、映像配信、ZOOMを用いた演劇、音声作品の制作、リーディング上演など、オルタナティブな発表形態への取り組みが様々にみられた。kaorikid/劇団三毛猫座《あの日は鮮やかな白》は、詩の朗読とアニメーションを融合させた作品である。複数人での音読により、韻を踏んだリズム感が強調され、水彩画風のアニメーションの透明感も心地よい。アニメーション制作は、イラストレーターとしても活動する劇団員のkaorikidであり、映像を外注しなくても、劇団メンバー内で制作している点に、演劇カンパニーによる映像作品としての可能性を感じた。

また、柳澤公平《新しい10年間》は、「フェイクドキュメンタリー」という実験的手法が目を引いた。「統計データの羅列」によって物語を紡げる可能性と同時に、情報や映像の「客観性」「信憑性」に対するメタ的な批評性をはらむ。もちろんここには、フェイクニュースに接近する危うさもあるが、「フェイク」であることによって現実社会をどのように別の視点から批評的に眼差せるかが、「フェイクドキュメンタリー」の賭け金だろう。その点で、本作では、「日本沈没」というアイデア自体は小松左京の同名SF小説の焼き直しに感じた点が惜しまれた。

 

審査過程は、極めて多岐にわたる作品を審査する難しさや苦しさと同時に、多様な作品との出会いという喜びでもあった。本映像祭が、改めて映像とは何か、作品を通してどう現代社会を見つめ直すことができるのかを問う場になれば幸いである。

高嶋 慈 たかしま めぐみ

(美術・舞台批評)

「茨木映像芸術祭2022-2023」には、その表現の質と力において、審査員の期待を上回る多数の作品が出品された。それだけにとどまらず、社会・政治的現実を批判的・分析的に考察する作品、過去の解釈や必ずしも楽観的ではない未来に向けた難しい問いを投げかける作品、軽妙で不条理なユーモアで魅了する作品、不思議な形やおとぎ話に登場するような存在によって純粋に視覚を楽しませる作品、実験性や表現の自由さを追求した作品など、多様なジャンルやテーマの作品が含まれていた。第2回目にして、若い世代の作家を中心に、高い芸術的価値を持った作品が多数見られたことは、これらの作品を広く紹介することで、より共感と自覚に満ちた社会づくりに貢献する、この映画祭自体の発展が注目される。

 

河原雪花『観覧車』がグランプリを受賞したことは、夢想的で幻想的な現実を構築する作家の絶大な才能を確認したということに過ぎない。その作品は、幼年期、おとぎ話、自宅の「シェルター」の感覚(自分の家にいる安心感)、世界を変容させる力を持つ夢など、多くの人にとって普遍的なイメージになりうるものだ。物語では、遥かな空と深淵な海の間に漂う童話的な鳥が、時間が止まったかのような出来事の唯一の目撃者となり、現実と非現実の境界を越えていく。この作品は、隅々までアニメーション的に洗練され、物語的にも質的にも一貫性のある作品に仕上がっている。鑑賞者は鳥とともに、「セイレーン」の歌に導かれ、魅惑的で美的に豊かなイメージの中に没入していく。この旅路は、大災害や惨事の後に静けさと平穏をもたらし、たとえ一瞬でも、世界のトラウマと破壊に対する救済となるかもしれない。

 

準グランプリを受賞した渡辺大士『客観的観客』は、非常に緻密に組み立てられた、繊細な論理的迷宮である。作品は知覚の落とし穴となり、何が現実の自分の体験であり、何が外から観察されたイメージであるのかを問いかける。観客と受け手の役割を混在させることで、ルイス・キャロルの小説のように、物事の合理的な二元論や物理法則の範疇が揺らぐ鏡の向こう側の世界を垣間見ることができる。

 

この映画祭に参加した素晴らしい作品すべてについて言及することはできないが、いくつかの作品に触れたいと思う。審査員賞を受賞した金丸知樹『穴を埋める』は、皮肉なユーモアと社会批判を絶妙にバランスさせながら、どこにも完全にはフィットしない石にふさわしい場所を探す旅を描く。また、『ワール』はアイデンティティや創造の問題を扱い、人間心理の複雑さを浮き彫りにする。『引き出しの中に』は、記憶や喪失感、そして祖先とのつながりについて率直に、高揚感を抑えつつ感動的に描いた。さらに、前世紀のドイツ表現主義者やニューヨーク・ボヘミアンの代表作を彷彿とさせる実験的な『断章』では、メタリック・トランスのサウンドとともに、増殖・反復するモチーフやオブジェが有機的とも言える自然形態からマクロ・宇宙論的な形態へと変容する過程を映す。

Paweł Pachciarek パヴェウ・パフチャレク
(多摩美術大学特別研究員、文学博士、インディペンデント・キュレーター、美術評論家、パフォーマー)

 

私は前回、第1回⽬の本映像祭に応募した1⼈である。応募要項に特質した規定がない反⾯、8分19秒の枠組みの中で、どのような表現ができるか試されているような印象を受けた。そのため、今回審査員として参加したのは、とても感慨深いものとなった。

前回もそうだったようだが、今回も多種多様な作品が集まったのではないかと思う。何を基準に評価するべきか悩んだが、最終的には「次回作を拝⾒したくなる作品」「様々な上映環境で展開できそうな作品」という部分を軸に⼊賞、⼊選作品を選んでいった。その中で印象に残った作品についてコメントする。

 

グランプリの「観覧⾞」は、⾮常に端正に作り込まれたアニメーション。役⽬を終えた観覧⾞が、楽園へ⼊り⼝として回り続けているのだろうか。極楽⿃のような⿃が、楽園へ導くための案内⼈のようである。眠り続ける少⼥を楽園へ送り届け、また誰かを導いて漂い続けるのだろう。具体的なストーリーはないが、絵本のように物語を想像してしまうところに魅⼒を感じた。また、⾳も繊細に構成されており、映画館のような⾳響が整った場所で鑑賞したくなった。作者の活動を調べてみると、作品制作と共にクライアントワークも制作しているようで、今後益々多様な活動が期待できる。

 

準グランプリの「客観的観客」は、ロジカルな思考で映像の特性を表現している作品である。動画共有サービスが普及して10年以上経つが、1時間前に投稿された動画と、10年前に投稿された動画を、特別意識せずに視聴している。同軸上に⾒えるが、そこには⾒えない時間の層が存在している。SF 的だが、アーカイブされた動画の中に意識が芽⽣えても不思議ではないのかもしれない。ふと、映画「リング」を思い出した。また、作者の意図とは違うかもしれないが、映像作品は、どんなジャンルであっても時間操作で成り⽴っている。それをシンプルな構図とカメラワークによって改めて気付かされた作品である。

 

審査員特別賞の「ツギハギの⾦星から」は、断⽚化された会話が、オノマトペのように聞こえて、不思議と違和感を感じない作品である。本来、会話は、絵と絵を繋げるための要素であるが、この作品は、逆説的な考えで成り⽴っているところが評価できる。⽅⾔や他⾔語を⽤いたものも⾒てみたいと思う作品である。「ルリジサの茶」は、ドローイングをする、⾃然の中を歩く、庭の⽵を切って燃やす、ピアノを弾くなど、⾔葉にすると端的な⾏動だが、映像化することでそれぞれの安らぐ時間の流れを体感できるようなところや、映像のテンポ、構図や⾊彩の美しさに魅⼒を感じた。

 

その他にも静かな暗闇の世界で光の粒が妖精のように踊り出す「極夜」、様々な素材を⽤いた⼿仕事が魅⼒的な「CIRCUS」、朗読劇のような語り⼝調の中で俯瞰して誰かの内⾯を覗いているような「ワール」、現実のタンスと記憶のタンスを整理していくような「In My Drawer引き出しの中に」など印象に残る作品が多くあり、楽しく拝⾒できた。

 

⼀過性や特定の場所で体感することは、作品の価値を⾼めるが、YouTube など動画共有サービスで作品を鑑賞することは、⼿軽な反⾯、どこか希薄さを感じていた。しかし、オンライン上で作品を鑑賞するのが加速する中、ここ数年可能性も感じている。もちろん並⾏して展覧会や上映会といった機会を作ることも重要であるが、映像表現の多様性に触れる機会を多く作ることができると確信している。

そのような期待を込めて、今後も本映像芸術祭が継続的に続くことを願う。

水野 勝規 みずの かつのり 
(美術家、映像作家)

映像メディアが誕生して132年。私たち人類は映像を用いた様々な表現手法を開発してきました。映像装置「シネマトグラフ」を発明したリュミエール兄弟が残したフィルムを見ると、当時の映像には〈演出としての編集〉という概念がまだ存在せず、あくまで「つなぎ合わせる」という簡素な表現であったことを知ることができます。単なる記録としての映像メディアが様々な表現者の手により「映画」になり芸術表現に革新していき、さらにメディアの発展とともに見るものの感情を動かす多種多様な〈映像話法〉が発明されていきました。

 

今日、映像は小型で安価な機材を使って誰もが撮影しデジタルデータでの編集が可能となったことで、その表現を手にする人の数や層は10年前には想像もできなかったほど増大しています。茨木映像芸術祭に集まった作品には、ゆるやかな応募規定の効果もあり様々な〈映像話法〉を見ることができました。劇映画、喜劇、ホラー映画、ドキュメンタリー、S F映画、実験映像、アニメーション、CGアニメーション、ダンスムービー、ホームムービー、プロモーションビデオ、ミュージックビデオ、記録映像、報道映像、やってみた動画、データビジュアライゼーションなど。応募作品全作品を総覧することで132年の映像の歴史を眺めているような感覚を覚えました。

 

第二回茨木映像芸術祭のグランプリは河原雪花《観覧車》です。緻密な切り絵とコンピュターグラフィックを用いたアニメーションは高い演出力と映像技術で、冒頭から人々を引き込ませます。サウンド、色、動き、構図。画面の隅々までが一体となったその総合表現は私たちを深海のような静かな世界へゆっくりと導いてくれます。少し不安で、だけど居心地の良い映像はあらゆる世代と国籍にも心響く普遍的な表現に到達しています。

 

これからの映像はシングルチャンネルの上映だけにとどまらない表現へと進化していくことになります。それはVRであったりメタバースでの没入型鑑賞、複合メディアとの同期上映や触覚と映像の新しい鑑賞かもしれません。これまでも人類がそうしてきたように、映像メディアの進化と相互に影響を受け合いながら「まだまだ映像芸術は進化しているんだな」とこの映像祭を通してあらためて未来を展望しました。第三回目が今から楽しみです。

山城 大督 やましろ だいすけ 
(美術家、映像作家、Twelve Inc、京都芸術大学専任講師)

 

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