審査員総評

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「茨木映像芸術祭」の第1回目の審査をさせて頂くことになった。8分19秒以内の映像作品ということ以外に特に応募規定はない。ホームページによると8分19秒とは「太陽から私たちに光が届くまでの時間」だそうで、映像作品たちがどのような光を放っているのか楽しみながら拝見した。応募作品は多様であり、評価することが難しいと感じたので、私は次のような方法で評価をした。完成度、企画などの評価軸を設定して、鑑賞後に各項目の採点をし、それらを加算し最終的な評価とした。その評価をもって審査会に参加した。そこで入選作と入賞作が決定されたのだが、質が拮抗していたために審査は難しいものであった。私自身が強く関心をもった受賞・入選作品についてコメントする。

 

グランプリの谷耀介の「A Certain Town in the Days」はコロナ禍でインタビューや撮影を行い、それをもとに制作したアニメーション。厳しい状況下であるが、住人たちの日常を落ち着いたトーンと、温かみのあるタッチで、少し不穏な空気感を放ちながらゆるやかなリズムで描写している。バーなどの店舗経営者や神社の宮司たちが語る言葉から、なんとか変化を受け入れようとしている状況や、人とのつながりの大切さが伝わってくる。繰り返される町の景色、ラストカットの電車のシーンなどから、それでも時間や日々は続いていくということを感じさせる良作だった。

 

準グランプリの水野勝規の「cobalt」は定点のカメラで1カットのみで構成されている、緊張感のある美しい映像作品。雨粒は光を内包し軌跡を描きながら地面に落ちる。水たまりの波紋が微細に光と影を描く。それらの様子は抽象化された時間そのものを見ているような感覚になった。ふと飛翔する鳥が画面を横切り、カメラで撮影された映像だったことを思い出す。やがて雨で満たされた地面の反射が光の粒子を生み出す。シンプルかつ重層的な意味を感じさせ、繰り返し見る事のできる魅力があった。

 

特別賞のNanako Katoの「MAKE」は見る事と見られる事の関係性や、ひりひりとした暴力性を美しく色彩処理を施した甘味・苦味のある耽美的な映像で描く。 三木祐子+金崎亮太の「音景」は茨木市周辺で撮影された映像の音を擬音に差し替えることで、見慣れた景色の裏側にある気配に触れたような感覚になる映像音響作品であった。gomaoraの「ねじけたつま咲き」は透明感のある瑞々しい映像で登場人物たちの関係性の変化と心の機微を繊細に描く。

 

惜しくも受賞は逃したが、絵画の制作プロセスに含まれる映像的な側面を可視化した山岡敏明の「GUTIC MORPHOLOGY Limited Unlimited Drawing」、光が振動と波によりRGBに分解され、映像が光であるという事を視覚化したAKITO SENGOKUの「VISIBLE」、空間と時間を接続・越境することができるという映像編集の可能性について再考させられた三本木歓の「neighboring」が印象的だった。

 

映像芸術祭という枠の中で、オンラインで映像作品を鑑賞する事の難しさもあるが、一方で地域や国をこえて気軽に入選作品にアクセスし投票できるというメリットもあった。プラットフォームがYouTubeだったこともあり、閲覧者の個人のアクセス情報にもとづいたおすすめ映像のサムネイルが表示され、入選作品以外の映像にもアクセスできてしまう(映像祭として興味深い状況だと思った)。このような状況からも、映像が身の回りに溢れているといった物言いも理解できなくはない。しかし、私は今後も様々な局面で映像の重要性と本数は増していくだろうと思うし、映像表現の可能性の広がりに期待している。そのような事を数多くの応募作品を拝見しながら考えていた。次は一人の作家として応募者の新しい作品にまた何処かで出会いたい。

 

林勇気(映像作家・美術家)

まずは、作品をご応募くださった皆様に心より感謝致します。私がアートでお仕事をさせていだいている中の一つに、「京都国際映画祭~映画もアートもその他もぜんぶ~」(アートプランナー)があり、そこでも公募展「クリエイターズ・ファクトリー」があります。皆さんからよく訊かれるのは、映画とアート映像の違いは何ですか?という質問。物理的には映画はスクリーンで映画館で鑑賞、アート映像はプロジェクターやモニターなどを用い美術館やギャラリーで鑑賞するというのが通常。えっ、答えになってない!? 映画はセリフや背景などから導かれる物語、アート映像は行為や空間などから発せられる思考。と、分類せよ!と言われたらこのように答えますが、要は映画なのか?アート映像なのか?という観点ではなく、その作品が芸術としての役目をちゃんと果たしているのか、というのが重要。漫才師である私おかけんたが漫才で解説すると、昨年の『M - 1 グランプリ2020』関連でネット上でよく目にした、「優勝したマヂカルラブリーのネタは漫才なのか」。この問いに対しての私の答えは、暴れてるだけとか寝転んでるだけという観点ではなく、そのネタが漫才としての役目をちゃんと果たしているのか。つまり無限の可能性を秘めたものを時代と共に転化させ、確たるものを次の世代へとバトンタッチできるのかどうか、ではないかと。

で、今回の「茨木映像芸術祭」の応募作品についてですが、私なりの基準があります。それはひとコマひとコマに魅せる力があり、心の奥底に響く音や言葉があること。そういった意味ではその基準をクリアした作品があったことは、とても喜ばしいこと。

中でもgomaora「ねじけたつま咲き」は、タイトルからして興味をそそるもので、17歳女子の純なエッセンスを凝縮した作品。カット割りも心地好く、キャストとスタッフの現場の雰囲気まで伝わってきます。特に最後の、「究極の選択を迫ってみよう。みつきと私、どっちが好きかって」のひなのセリフの後のみつきのセリフが、まさに17歳! 

こういった映画的な作品の他、『音』を題材にした作品が、三木祐子 + 金崎亮太「音景」。茨木市内の商店街や駅の中に潜む音を、オノマトペで表現。固定カメラで撮影されたモノクロ映像に、「ザワザワぁ~」「ガタンコトン」とオノマトペが入ることにより言葉がカラーになり、イマジネーションを掻き立ててくれます。

コロナ禍でオンラインが加速した今、映像は観るだけではなく参加や製作するコンテンツとして確立し、利益をあげる手段としてもメジャーになりました。このような時代に「茨木映像芸術祭」が実施されたことは大変意味のあることであり、様々なものが窮地に追いやられた今だからこそ芸術で救えることがまだまだあるのではないか。そんなことを思い起こさせてくださった、この「茨木映像芸術祭」。来年も是非とも存続していただければと思っています。

 

 おかけんた(よしもと芸人・アートプランナー)

「太陽から私たちに光が届くまでの時間」である8分19秒以内の映像作品を募った、茨木映像芸術祭。映像表現の様々な可能性を感じさせるような多種多様な作品がそろった。

グランプリの《A Certain Town in the Days》は、COVID-19感染拡大状況下の日常に取材し、石川町で暮らす人々にインタビューした映像を元に制作された、ドキュメンタリーアニメーション作品である。目に見えない不安と戦わざるを得ないリアルな迫真性は、石川町に限らず世界中の至る所で共有されており、見る者の感情を揺さぶり共感を呼ぶであろう。実写をそのまま使うのではなく、アニメーションとして描き起こすことによって、物語性が高まると同時に、線の揺らぎが登場人物たちの抑制された肉声と相まって、非日常における日常性を何とか保とうとする内心の葛藤や困惑が漏れ出すようにも感じられる。

準グランプリの《cobalt》では、乾いたアスファルトの路面に雨が降って染まってゆく様が淡々と描き出されている。静謐な画面に視線が吸い付けられるうちに、道であるはずの画面がどこか夜に見上げる星空のようにも思えてくる。微細な変化を見つめるうちに、夢幻の境地へと誘われるが、途中で鳥が横切るシーンで日常性がふと感じられ、見慣れた風景の中に、突如出現する非日常の世界との往還を感じさせる。

特別賞受賞作品も力作が揃う。《音景》は、茨木市街の風景がモノクロームで登場し、音がオノマトペによって表現される意欲作である。《MAKE》は、「女に生まれるのではない、女になるのだ」という著名な言葉が冒頭で引用され、社会の中で形作られ、気づかないうちに刷り込まれてゆく女性性/男性性について考えさせられる。パフォーマンスや演劇の記録と位置付けられるような作品も多く寄せられ、例えば《Elysium》も優れたパフォーマンス映像として印象づけられた。惜しくも入選は逃したが、応募作品の中には演劇的シーンをつなぎ合わせ、ユーモアも交えながら現代社会を鋭く批評する作品も複数見られ、映像作品と社会的現象とが深く結びついていることがリアルに感じられた。また上演芸術の臨場感や一回性とはまた質の異なる、映像ならではの魅力や可能性を感じさせるものでもあった。

映像を用いた表現は今後一層広がってゆくことが予想される。長く続くCOVID-19の流行拡大と、その深刻な影響にも関わらず、今回の応募作品からは映像表現の手法の洗練や内容の多様化と深まりが見てとれた。世界中至るところで甚大な危機に直面しているからこそ、こうした変化が起きているのかもしれない。時代の変節点と言わざるを得ない。ここから更に、新たな段階を迎え、豊かな実りと未来を拓く力とが生まれることを願ってやまない。

加須屋明子(京都市立芸術大学教授)

茨木映像芸術祭に全国から沢山の応募があり、大変嬉しく思っています。

応募された方の年齢も幅広く、バリエーションに富んだ作品があつまりました。

 

審査にあたりまず重要視したことは、芸術の本質とは何かということです。

個々の作家の心の中にある簡単に言語化できない思い、それを様々な方法を使って表現すること、これが絵画であれ立体作品であれ、さらには言えば音楽においても、芸術としての本質だと考えます。

 

私は美術大学で日本画を学びました。日本画の彩色は決して厚塗りではなく、色を薄く何回も塗り重ねることによって、ひとつの色を出します。たとえば緑を表現するには始めに黄土色を、次に群青の薄い色を何度も塗り重ねて鮮やかな緑を出すのです。一見、緑とは全く別の黄土色を下地に塗るところに、料理の隠し味のようなものがあって、色を重ねると汚くなるのが普通なのに、かえって鮮やかに仕上がります。

これは映像でも同じだと思われます。美しい映像をつなげるだけでも綺麗な作品はできるでしょうが、あえてそうではない素材を生かすことによって、さらに深みのある作品が出来上るに違いないと考えます。

私は自分の芸術作品において、画面の中に映し出されていない物、見えない物を表現することが重要だと考えています。たとえば「空蝉」という作品では、蝉の抜け殻を用いて空に飛び立った、魂の姿を表現していると感じました。惜しくも賞にもれた中にも優れた作品がいくつかありました。

 

映像制作においては最近のめざましい技術の進歩により、経験が少なくても簡単にハイレベルな表現が可能となりました。それ故に作家の個性・表現力がより重要になってきていると思います。今回はそのような観点から審査を行いました。

 

木村光佑(造形作家・茨木美術協会会長)